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情報を批判的な目で評価する

2010年1月21日

今日は、私の仕事のことについて、少し書きます。どうして今日これをここに書くかというと、あることに関してとてつもない恐怖を感じたためです。私自身の中にあるこの恐怖と戦うために、何かしないと気持ちが落ち着かないのです。

ここに書くことは一般論です。個別の事項を批判しようとしているのではありません。これを読んで何かを感じる方が一人でもいらっしゃれば、書いた意味があると思っています。

現在、学術研究を仕事にしています。専門は生物学で、基礎研究の分野です。生物学は物理学や化学と比べて、実験結果がすこしあいまいなところが有ります。物理学や化学では研究結果が結論と一対一対応することが多いと思いますが、生物学ではそうはいかない場合がほとんどです。『おそらくこうなっているのだろう』『それは考えにくい』といった、少しあいまいさの残る事柄の積み重ねで、『これは間違いない』という結論を出そうという傾向があります。

実験を行って結果を出し、それを論文として報告するという一連の流れの中で、どのような実験を組み立てればより結論が確かになるかと言う事を日々考えながら仕事をしています。論文中での表記についても、最大限の注意を払うことが求められます。いい加減な実験結果で、言えもしないことを結論付けようとすると、その論文はほぼ間違いなく審査に通りません。確実に言えることだけを結論として報告し、確実でないことは『もしかしたらこうかもしれない』と表現するか、あるいは論文ではそのことについては触れないようにします。

論文の中で何か結論を導きたいのであれば、実験結果を必ず示さなければなりません。まれに、"data not shown" (邦訳:結果は示しませんが) と断った上で、ある事柄を結論付けることがありますが、それは論文の読者(及び審査員)はそれを見なくても納得するだろうと考えることができる場合だけです。実際、"data not shown"について、それを納得しない審査員が、実際のデータの提出を求めてくる場合もあります。

実験結果を示さないもう一つの事例は、ある事項が、今までに発表された論文ですでに証明されているケースです。そういった場合、『何年』に、『どこの雑誌』の、『どのページ』に、『だれ』が報告したのかを必ず表記します。論文の読者は、結論付けるために引用したその情報がどれくらい確かかを、原著論文を読むことで判断することができます。引用先の論文が怪しければ、それを引用している論文そのものの評価が落ちるケースも、ままあります。

上で述べたことは論文を発表するときの事ですが、逆に、他人の発表した論文を読んでそれをどう評価するかということも、研究者としては大事です。この場合、論文で述べられている結論を鵜呑みにするのではなく、批判的に論文を読むことが求められます。実験結果が示されている場合は、その結果から本当に著者らが主張していることが言えるのかどうかということです。別の論文を引用している場合、その引用の仕方が妥当なのか、引用先の論文は信用できるのかどうかも、評価しなければなりません。なので、一つの論文を確実に評価しようとすると、数報、あるいはもっと多くの論文を熟読しなければならないといったことも、しばしばです。

ある論文に対する評価が、人によって異なることもしばしばです。ある人は良い論文だと言い、別の人は悪い論文と言う、そういった状況でその論文に対する自分自身の評価を確実に決めるためには、実際に論文を読むのが一番です。自分の目でデーターやその他を含めて吟味することで、初めて自分自身の評価を得ることができるのです。他人の評価を受け売りするのは、人により評価の仕方がさまざまであることを考えると、危険な事といわざるを得ません。

ここからは、私の仕事から少しはなれて、書きます。

ある論文の解釈が間違っており、その間違いに多くの人が長い間気がつかなかったということが時々有りますが、私達研究の分野では、それで人の命がどうこうという事はほとんどありません。特に、私の分野は基礎研究なので、なおさらです。しかし、ある情報が間違っており、その間違いに多くの人が長い間気がつかなかったということがあり、それが特定の人の命や人生に大きく作用するような事柄であった場合、それはぞっとする事です。しかも、ほとんどの人にとってそれが本当に正しいかどうかを判断する材料が与えらない場合(ここが、私達の行う研究と異なる部分ですが)、それはこの心配をより深刻なものにすると言わざるを得ません。

そういった情報を提供する側が、間違いであると分かっていてやっているとか、間違いかもしれないことに気がついていながらあやふやなまま、さも真実のように情報提供するとか、隠れたところでこそこそとあやふやな情報提供をする(この場合、責任は問われない)などは、あってはならないことです。その情報により人の命や人生が大きく左右されるような場合は、なおさらです。

あるいは、そういった情報が真実かどうかを確認できる立場にある人間が、自己の利益だけを考えて、そういった確認をせずに情報を鵜呑みにして第三者に伝えるということも、あってはならないと考えます。このような、情報を第三者に伝える立場の人たちは、得られた情報のうち自分達に都合の良いものだけをピックアップして取り上げるといったことも、慎まなければなりません。このことは、以前の記事でも紹介したとおりです。公表する情報がすべて正しくても、どれを取り上げてどれを取り上げないかを意図的に行えば、ありもしない結論を構築することができることを、以前に紹介しました。

こういう状況の中で、情報の受け手である私達はどうすればよいでしょうか。難しい問題ですが、先に述べた論文の評価と照らし合わせて考えると、確実な情報を手に入れて判断することが一番ということになります。何が確実か分からない場合は、より多くの情報を元に判断するべきです。幸いに、今のインターネットが使える時代では、以前よりも、より多くの情報を得ることができます。そういったさまざまな情報を元に、判断するのがよいでしょう。

得られた情報の信憑性についても、吟味しなければなりません。例えば、『ある人に聞いたのだけれど』といった話は、信用性が低いと考えたほうが良いかもしれません。もし、『誰に聞いたのか』と質問して答えが返ってきたのなら、言った人に直接聞いたほうが、より信頼性が高いはずです。答えが返ってこない、もしくは、そういう質問ができる状況にない(多くの場合はこれだと思いますが)場合は、いったい誰に聞いたのかがより具体的に分かるほうが、より信頼性が高いということになります。それを隠して情報を伝えようとしているケースは、当然、信頼性が低くなります。

自分自身で吟味できるほど情報がない場合はどうすれば良いのでしょうか。私は、そういった場合には100%の判断を下さないようにしています。つまり、『本当かもしれないし本当のように見えるけれど、実は間違っているかもしれない』という評価を下すということです。人の命や人生が関わっている場合は、まさにこうするべきだと考えます。

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