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MZ-80でゲーム三昧の日々

2009年1月13日

30年前の春。私が中学生だったころの話の続き。

コンピューターに触れ続けた春休みが終わり、祖母の家から戻った私は、コンピューターのことなど忘れて中学に通う日々を続けていた。

ある日、駅の近くにあるN無線に行ってみた(関西の人なら、どの店か分かるはず)。そこは電子部品など扱っている店で、部品を購入するために以前一度行ったことがあった。

すると、そこに、あった!日立ベーシックマスターが、電源が入った状態で置いてあったのだ。もうそれは嬉しかったのなんのって、夢中でキーボードをたたいた。今なら考えられないことだが、そこの店の人の人たちは、中学生が夢中になって店のコンピューターを使い続けることを、許してくれたのである。ありがとうございました、T店長、および店の方々。

それからというもの、ほぼ毎日、放課後は店に通った。同級生の話では、『N無線に行くと、M(私のこと)に会える』というのが噂になっていたそうだ。

コンピューターとだけでなく、人との出会いも会った。ある日、同じ制服を着た中学生が一人現れた。一つ年上の先輩、Sさんである。なぜか彼はコンピューターや電子工作に関する知識が深く、色々と教えてもらったものである。今考えてみると、彼のお父さんがそちら方面の職に就いていたのかもしれない。とにかく彼は、何でも知っていると思えるほどの情報を持っていた。Webなど無かったその時代は、コンピューターに関する情報の多くを彼から得ていたのである。もう一人、Dさんという人物にも出会った(実際には苗字はYから始まるのだが、訳有ってかれはDさんと呼ばれた)。彼は確かそのとき2つ年上の高校生で、彼も私達と同様に、コンピューターを求めてN無線に来ていたのである。三人は良いトリオで、それぞれの得意分野が違っていた。

ある日、日立ベーシックマスターの横においてあった別のコンピューターを指して、Sさん曰く、『こっちの方が面白いで!』。実は、Dさんと出会ったときにも、Dさんはその、隣のコンピューターを使っていたのである。これこそ、Sharp MZ-80Kである(MZ80開発者のブログはこちら)。

何がベーシックマスターよりも面白いかったかというのを説明するのは難しい。が、ベーシックマスターはその名の通り、BASICというプログラミング言語をマスターするのに特化したコンピューターであったのに対し、MZ-80KはBASICを使う以外に色々なことが出来たことが理由の一つに挙げられる。他には、CPUとしてZ-80を使っていたこと。ベーシックマスターに使われていた6800という石もそれなりに面白かったが、当時はZ-80が流行であった。

私がベーシックマスターからMZ-80に移行した決定的な理由は、MZ-80ではコンパイラが使えたことである。ベーシックマスターは、BASICインタープリターを使う以外に方法がないと言ってよい。他方で、MZ-80では、GAMEと呼ばれる整数型のBASICに似たインタープリター、およびそれ用のコンパイラが出始めたころだった。GAMEコンパイラーは、雑誌に載っていたソースコードを、仲間と交代で打ち込んだ。

コンパイラーを使うと、速いのなんのって、今までのインタープリターでの速度がばかげていると思えるくらいの衝撃を受けた。GAMEインタープリターとコンパイラーの組み合わせは、中学生にとっては、まさにゲームを作るのに絶好の環境だったのである。せっせとゲームセンターに通い、新しいゲームを少し楽しんでは、100円玉をたくさん使う前にそのゲームをMZ-80に移植し、タダでゲームを楽しむのである。スペースインベーダー、ギャラクシアン、名前は覚えていないけどABMを使って街をICBMから守るゲームなど等。平城京エイリアンなるものも作った(なぜ平安京でなく平城京かというと、奈良県に住んでいたから)。

先に紹介した、S先輩やDさんとの共同制作のものが多かった。それぞれ、得意分野が違うのである。Dさんは、キャラクターを並べて画像を作り出すといった、デザイン分野が得意だった。今でも覚えているのは、『侍』という名のゲーム用の登場人物を作り出すキャラクタの集合体。ここでの表示ではちょっとずれてしまうが、おおよそこんな感じ↓
 ○
 ■/
( )
大笑いしながら、侍ゲームに採用。S先輩は、マシン語を使った画像の一括処理が得意だった。彼の作で一番面白かったのは、立体迷路。実際に迷路の中に入ったような画面で、前に進んだり左右に回ったりして、迷路から脱出するゲームである。当時の立体迷路は普通、画像処理に時間がかかり、一歩前に進むたびに5-10秒くらいかけて迷路の様子を描画していた。ところが、彼の立体迷路は、描画にマシン語を使っていたので速く、迷路の中を走り回るように移動することが可能だったのである。私が得意だったのは、彼らが用意してくれたものを使って、GAMEコンパイラ・インタープリタでゲームの進行を処理する部分だった。3人、あるいは2人の共同で作ったゲームは、数え切れない。

S先輩と共同で制作したゲームで遊んでいたときに、見知らぬオジサンから声をかけられたことがある。このゲームを売ってくれないかと。価格は、10万円もしくは中古のMZ-80を一台とのことだった。10万円だと二人で分けて5万円ずつで、これではコンピューターが購入できないし、MZ-80を一台だと二人で分けられない。こう考えた私は、馬鹿なことに、ゲームを売ることはしなかったのである。あーぁ、5万円でも良かったし、MZ-80をもらって、高校のどこかにおいておいて二人で使ってもよかったのになぁ。『子供の考えていることは良く分からん。』今の私が昔の自分を振り返るとそう思うし、そのオジサンもたぶんそう思っただろう。

(続く)

コメント

きゃしゃ (2009年1月13日 21:29:34)

ボクらが某ベーマガやI/Oを手に電気屋通いしたのはもう少し後の時代ですね。
ひょっとしたらあのころ打ち込んだプログラムにkatsumiさんの作品があったのかも。

Kat (2009年1月13日 23:08:58)

それは多分、無いです。私たちの作品は、世に出しませんでしたから。ただ、たくさんの友達にコピーを配ったので、ずるをしてそれをそのまま投稿した人がいたかも(笑)?

大学生のときに、ゲームではありませんが、一度だけI/O誌に名前が載りました。これについては、後日書きます。

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